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伸銅発祥の地より


資料提供:赤司製線株式会社 専務取締役 榛葉 肇氏

 池袋から東武東上線に乗ると20分程で埼玉県新座市の玄関口、志木駅に着く。市内を流れる黒目川流域に於いて、関東で最初の「伸銅業」が誕生した場所です。
 隣接する朝霞市で文化元年(1804年)水車を動力として伸銅が行われたことに始まるが、やがてほぼ時を同じくして上流の片山地区でも、水車の製粉業者が伸銅を行うようになり、膝折・片山地区の「はりがねこうば」は文明開化とともに栄えることになる。
 伸銅の歴史は関西のほうが古く、17世紀初めには京都・大阪を中心にさかんに行われていた。膝折の「はりがねこうば」は「下がり棹」と呼ばれる関西で製造された銅棹を、江戸表の問屋(おたな)から材料として貰い、伸銅して加工賃を稼いでいた。
 当時の製法は、銅棹を炉に入れ、松炭で「なまし」、軟化したところを「ぶちや」がハンマーで叩いて伸ばしていく。「なまし」ては「ぶち」を繰り返し、棹を棒状に伸ばしていく、この作業を「銅づき」と云った。そして先端を細くして、鉄板に穴をあけた「目打ち」板(ダイス)に挿入し、出てきた頭を「たてばし」で挟んで引き出す。更に「かけだし」という金具に繋ぎ、鎖をつけて水車の芯棒に巻き付け、水車の回転力で銅棒をダイスの穴から引き抜く。同様の作業を繰り返しながら、だんだん小さな穴のダイスと交換し、繰り返し引き抜いて細い棒や線に仕上げた。(写真上は当時使われた工具類)
 ごく細い線は、「小出し屋」という専門の職人がいて、手回しの機械を使ってロクロに巻き取り、何回もダイスを交換して根気良く伸線し、20〜40番線位の細線を造ることができたという。(写真右は木製手動式伸線機)
 やがて、この地区でも明治の終り頃から、「地合わせ」と云って銅と亜鉛を溶解して、合金を造るようになった。新しい技術も導入され、「ぶちや」の仕事がロール圧延によって失われ、労働争議が起こったりもした。明治40年頃のことです。
 大正に入り、水車は電気動力によってその使命を終える。モーターの使用は一大革命をもたらし、第一次・第二次世界大戦による軍需の増大で片山・膝折の伸銅業は全盛期を迎えたが、昭和40年代に入るとアルミ製品の普及・近代化の遅れ等によって、この地区の伝統的伸銅業は次第に衰微し、相次いで転廃業へと追い込まれていった。
 今、黒目川の畔に立って、片山から下流の膝折を眺めても当時を偲ぶよすがもない。川はすっかり改修され住宅地の中を両岸の高い土手が続くのみだ。  昔の伸銅現場は、水車を動力としていたとはいえ、まさに人間と銅との汗みどろの格闘であったことが当時の文献から伝わってくる。
 分速2,000m以上のスピードで伸線され、ロボットが動きまわる現在の「はりがねこうば」に佇んだとき、幽かに、せせらぎの音と、水車の回るキシミ音が聞こえてくるような気がする。  当社が今日、関東に於ける伸銅発祥の地に於いて、くしくも銅線の伸線を業としていることに、何か不思議な因縁を感じてならない。

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